無題

 

七月某日

 

コロナコロナで気がめいっているところに災害級の豪雨。去年それなりに大きな地震が来たとはいえ、3.11の時も大きな被害をまぬかれた地元の山形でも「五月雨を、」で有名な最上川おしんでも有名)が氾濫し、「いよいよ逃げ場がなくなったな、」みたいな気持ちに。ちなみに筆者はおしんを見ていません。

 

コロナ禍で政府も助けてくれない国だということが鮮明になっていく中、我々世代には年金やら定年延長やらただでさえ負担が重いのに、その上に災害が重なり、本気で「人生百年時代なんてこっちから願い下げですね、、、」みたいに思っていた中、嘱託殺人のニュースを見て、「願い下げする権利すら奪われる未来、、、」と空を見上げてしまった。

 

確かに、今の政府は何もしてくれなさそうなので、めいめいが食い扶持を得れるようにやっていくしかないが、自分でどうしようもできないことは政府に頼るしかないのは自明である。自己責任論を振りかざして、駅からホームレスを追い出したところで、明日は我が身であるということはコロナ禍で嫌というほど感じていいはずなのにどうしたものか。単純に想像力の欠如とかそういう問題なのか。

 

八月某日

 

生活必需品を補充しに、ダイソー、無印、ユニクロへ。いうまでもなくゴリゴリの日本企業である。ダイソーだけ少しラインナップが違うと認識しているが、それでもほとんど自分の国と同じように利用できるのは善か悪か。(追記、日本ダイソーと韓国ダイソーは別会社だそう)

 

日本にいる時から、チェーン店に対してある種の嫌悪感というか、複雑な感情があったが、結局非チェーン店を探したりするのは面倒だし、そもそもそういう嗅覚とか感覚の豊かさを持ち合わせていない。資本主義万歳。

 

八月某日

 

同じ海でも国が違えば呼び名が変わるように、同じ日でも国が違えばその日の持つ意味は全く違う。

 

向こうの国の海岸はこちらからは見えないし、それは向こうからも同じであるが、見えないからそのままにしておくわけにはいかないし、相手の国のことを知ろうと思ったら、想像力と、相手への関心を持って常にもっと、もっとと、知ろうとする努力が必要である。

 

しかし悲しいかな、知ろうとする方法の中には、たやすく知った気になれる道具はあふれているし、インターネットにも書店にもそんな感じのものだらけである。

 

そういった、ある種便利な道具と距離を取りつつ暮らしていくことは、この上なく文化的で、豊かな行為であるが、もちろんその豊かさは時間とペイオフの関係にある。素早くより明快で、時には痛快さまでも求められてしまうとき、私たちはそうした安易な道具に頼って、自分の知識を伸長した気になってしまいがちでもある。しかし、いくら時間に追われようとも、自分が大事にしたいものに対しては安易なことはしたくないし、常に二択を並べていくような姿勢も可能な限り避けたいと思う。