無題

五月某日

 

何か月かぶりに付き合いの長い友人4人くらいと通話をする。まめに連絡を取る友達がそこまで多くない(「まめに」がどのくらいの頻度なのかわからないが)私にとっては非常に貴重な存在なのだが知り合ったころとは自分の性格や思考が変わりすぎて、話が合わなくなったり頻繁に連絡をするのがおっくうにも感じることもある。それゆえ急に旅行に行く話が出て「旅行まではちょっと、、、」みたいな感じになってしまった。

 

いくら仲がいいといえども、個々の性格の変化とともにだんだん関係も変化していくし、住むところややっていることが変化していけば付き合いも薄れて行ったりする。しかし中にはそれに抗いたい人、出会った当時のバイブスと関係を維持したいという人もいて、そういう時は相手方の期待にお応えできないわけなので何とも言えない気持ちになってしまう。

 

こうして言葉にすると自分はただ連絡するのが面倒なのでは?とも思うが、昔の友達のことも気にかけていて、たまに連絡を取ったり、するのが自分には合ってそうだなと思う。

 

 

 

六月某日

 

なんだかんだで友達がたくさんできて一週間のローテーションでは全く回せない数の友達ができてしまう。正直コロナコロナ言いつつもほとんど外出を自粛せず友達作りに励んでいたので日本出国時のビビりようからするとかなり驚きである。

 

よその国にお邪魔させていただいている身分で友達が増えすぎてなどというのは本当に恐縮である。私が日本人であるがゆえに、それなりに興味を持ってくれて友達と付き合うことができているから、なおさら優先順位をつけるようなことはなかなか気が引ける。

 

相手が韓国人で興味があるから、日本にいる時よりかはかなりオープンかつ相手に関心を持って人と関わっているが、果たして日本に帰ったら今と同じように相手に対して関心を持って付き合っていくことができるだろうか。

 

 

 

六月某日

 

「日本人は」「韓国人は」などと主語をでかくするとなんだかわかりやすそうではあるが、意外と役に立たない。

 

最初韓国に来た頃は、会う人会う人を「韓国人のイメージ」に照らし合わせて、この人は韓国人ぽいな、この人はそうでもないな、などと考えていたが、こういうのはなんか感受性に乏しい気がするがそのフィルターは決して外れないし、ないほうがいいとも限らない。

 

自分は結構、韓国人のイメージとか、ある種の偏見を挟んだ視点から脱したい、みたいなきらいがある。そもそもそんなことは対日本人でもできていないのに外国人を相手にその「人」そのものを見る、みたいなことはあと何十年かかったらできるようになるのだろうか。

 

 

 

六月某日

 

悩み事ができて朝四時とかまで寝れない体になってしまう。今までほとんどこういうことがなかったのでなんだか新鮮な気もするが睡眠はしっかりとったほうがいい。

 

二年位前にも悩み事と早朝アルバイトの疲労が蓄積しおかしくなったことがあったが、そのころから音楽を聴いて泣いたり、見る映画ほぼすべてで顔をくしゃくしゃにしながら泣く体質になってしまった。最近は玉置浩二で泣いた。(田園)

 

 

 

七月某日

 

最近知り合った友達に鋭い指摘を受ける。簡単に言うと、人の質問に対してはっきり答えないというもの。うすうす似たようなことを自分でも感じていたがめちゃめちゃはっきり言われたし、言われたことがなかったので(そう思ってた人はいるだろう)、すごくびっくりしてしまった。

 

 

 

七月某日

 

一か月くらいぶりに一番仲のいい友達に会う。あっていない間にいろいろ大変なことがあったようで久しぶりに電話した時には思わずもらい泣き(むこうは泣いてなかったけど)してしまった。

 

彼女はたまに「あなたが外国人だから何でも話せるのかも」という。そのまま受け取れば私が外国人であることはおおむねコミュニケーションをとる中でいい方向に作用していそうだが、コミュニケーションをとれる程度に韓国語を学んで調子に乗っている私にとっては何とも言えない疎外感みたいなものを感じてしまう。とはいえ彼女は「韓国語が下手で外国人っぽい」と言いたいのか、純粋に外国人の友達としてみているからそういうのかはわからない。

 

悲しい事実として私はひとまずあと数か月で日本に帰らなければならないし、そのあと韓国で就職をしようとしているわけでもないので、最終的には「海の向こうにいる外国人の友達」的な立場で友達と接していくことになる。そうなったらいつまで、今いる友達のうち何人のことを「海の向こうの韓国人の友達」として気にかけていけるだろうか。