無題(加筆)

七月某日

人生のセンパイたちがくれるアドバイスはいつでも教訓に溢れている。

 

曰く、何か打ち込めるものを見つけた方がいいとのこと。センパイには熱心に打ち込める大きな趣味があると見受けられるが、ヨガをしたり、ネトフリを見たり、料理を作ったり音楽を聴いたり散歩をしたり韓国語を勉強したりしている筆者は無趣味に見えるらしい。

 

筆者は、センパイに毎週末に熱中できる趣味があることは結構なことだと思っており、かつ自分がつまみ食い的に趣味を楽しんでいることもそれで問題ないと感じているが、お前の趣味を探してやるなどと急に言って来たりもするのでちょっとびっくりである。

 

一つのことに熱中するもよし、いろいろちょっとずつやるも良しなのだが、なんとなく一つのことに打ち込むことが正義、みたいな価値観というか、強迫観念に苛まれるのは理解できなくもない(センパイが強迫観念に駆られているのかは定かではない)。かくいう筆者も一つのことに打ち込むのが唯一の価値だと思い込んで10余年野球をしてきた。野球しかしてこなかったことに後悔はないものの、ほかにもいろんなことができたのにしなかったのだと思うとなんとなくもったいない気もする。

それに高校生のとき、野球部を引退した後遊んでいた帰宅部の友人と非常に気が合ったことも結構いい学びだった。高校球児の筆者から見れば帰宅部なんかは下等動物くらいに見えていたが、当然そんなことは全くない。筆者が野球をしている間に彼らはスケボーをしたり音楽を聴いたり、もっとたくさんのことに触れていたのだとすれば、そっちの方がちょっと良かったかもなあと思う。

 

七月某日

筆者が人に自慢できることの一つは、いろんなタイプの友達がいることである。

外国にも友達がいることもそうなのだが、バイト先でお世話になった親くらいの世代の人でも、折につけ連絡を取る人が何人かいる。バイト先のおばちゃんといえばそれまでだが、今となれば普通に友達みたいなもんである。

歳や境遇や国籍が違う友達がいると、いろんな人生があることがわかって調子がいい。調子が悪くなる時もあるが、自分のいるところではないところや、自分がいるところがすべてではないということを認識するのはメンタルヘルスを維持するためには重要なことである。

 

九月某日

冷凍の米を食べたところ、解凍し損ねた米粒をガリっとやってしまい、臼歯が欠ける。

時間がない中でもできるだけ自分で作って食べたいという考えで、週末に炊いた米をちまちまと平日に食いつぶして生活をしている。

当然時間の短縮に成功しているわけだが、その対価として修復しない臼歯を失ったことは果たして小さな代償といえるのだろうか。

もっとも、時間の短縮には成功しているが、冷凍の米はまずいし、平日のささやかな楽しみである食事を犠牲にしていると言えなくもない。

 

ここ半年くらい、仕事を始めてから時間をいかに効率的に使うかということを考えて生活しているが、果たして時間を効率的に使うことがそんなに大事なのかとも思えてくるわけである。

 

九月某日

父親にまたも金を貸してくれと言われる。今回も20万。多すぎず少なすぎず、新入社員の息子の月給と考えると非常にきな臭い額である。

前回もそうだったが、20万ともなるとおいそれと貸すわけにはいかない。やはり返ってこなかったときに息子と父の関係が一瞬にしてシリアスなものに変わってしまう。

前回利子付きで20万が返ってきたことを考えると、返済能力はそれなりにあると見てよさそうである。しかしメール一本で20万を貸せ、今回は二回に分けて成す(筆者の故郷では借金を返すことを<成す>と言ったりする)などと言ってくるあたりの人間性は、わが父親ながら感服である。本当にダサい父親像を地で行っている。そしてまた貸してしまう息子も息子である。

 

しかし心のどこかでこの不定期で来る金貸しイベントは人生っぽくてちょっと楽しい気もする。仕事と家の往復の生活に、父親からのダサい一本のメールが花を添えてくれると思えばそんなに悪いものでもないかもしれない。