無題

八月某日

 

バイト先の人が地元に帰省をしたという。地元が緊急事態宣言対象地域であるうえ事後報告だったため、当然周囲の人たちは大ブーイングである。

 

格好つけるわけでははないが、私自身は職場に違う土地から来てる人がいれば、今のご時世がどうとかに関わらず帰省する人だっているだろうな、と思ったりもする。が、そう思わない人たちの理論ももちろん理解できるので非常に複雑な心境になる。

 

一連の瑣末でいただけなかったのは本人からの弁明である。帰省した理由はごく正当なもので、事前に一言あればそこまで顰蹙を買わなかったのではないかと思われるが、本人は「言ったところで事情を理解してもらえると思わなかった」らしい。

 

伝えたところで理解してもらえると思わないので伝えない、というのは結構厳しいことである。相手側への不信と同時に、本人が伝える努力をしないというのは、コミュニケーションにおいてはかなり重大な問題である。

 

 

 

九月某日

 

得てして、他人の悩みや、他人の抱えている問題を軽視してしまいがちである。

 

「私なんか、俺なんか」と自分の話を棚に上げて、人の悩みは取るに足らないものである、というような姿勢をとってしまう。

 

この手のことを考えるときにいつも、いつか見たドラマで夫がアルバイトを始めた妻に対して、「バイトなんだからほどほどにな」と言いながら、妻の悩み相談を遮るシーンが思い浮かぶ。

 

アルバイトの妻の悩みも、正社員の夫の悩みも、社長の悩みも同じレベルで扱われるべきであるはずだ。社会的責任云々ではなく、本人が悩んでいるなら立派な悩みである。少なくとも、家族とか近しい人の悩みには真剣に取り合える人間になりたい。

 

 

 

十月某日

 

仏具屋で働く母に連れられ、町の小さな仏具屋へ。

 

仏具といっても様々で、仏壇や仏像から、コーヒー好きの故人のために、コーヒーの香りがする線香があったり、食品サンプルのようにロウで作られた「疑似」故人が生前大事にしていた物品、などさまざまである。

 

店主曰く、いわゆる本来あるべき、仏具におけるルール(宗派による)、みたいなものは良くも悪くも形骸化しているらしい。例えば仏壇の上に置く仏像の配置は決まっているらしいが、必ずしもその通りに並べなくてもいい、とか、本来三体並べなければならない仏像を一体しか並べない、などということもあるらしい。今でも和尚様にアドバイスをもらって仏具を買う人は多いらしいが、和尚様もそのあたりは柔軟にアドバイスをしているらしい。

 

 

 

十月某日

 

衆院選の日。選挙権を得て以降、投票するのは二回目である。

 

正直筆者はコロナ禍を経験してやっと、投票の仕方がわかったような気がしていた。その理屈の中では、今回の選挙に行かない、ということはあり得なかったのだが、数字の上では同世代の中でその感覚はあまり共有されていないようである。

 

筆者はコロナ禍で困窮することはなかったが、自分も一晩で困窮しうる立場にいることが身に染みて分かった。元アルバイト先が破産して、一緒に働いていた人たちが路頭に迷ったのも他人ごとではなかった。コロナ禍の時期に韓国にいたことで、国が違えばこうも違うのかと失望しながらも、多くのことに気づいたことも今考えれば非常に大切な経験だった。

 

ふと思うのは、私たちは意外と、どうやって投票したらいいのかを教わっていないのではないかということだ。金がない時に消費税を増税されたら、割を食うのは貧乏人だし、地球温暖化が進行すれば、海のすぐ横に住んでいる人は家を失うかもしれない。ならば、貧乏人は減税してくれる人を選べばいいし、海の横に住む人は、地球温暖化を止めてくれる人を選べばいい。自分の生活と政治がつながるロジックは簡単なはずなのに、投票が難しいと感じてしまうのはなぜなのだろうか。